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西光寺の歴史

始まりは平安時代~西光寺創建まで

 平安時代の末期、後白河法皇に仕えた源頼政は保元・平治の乱にも加わらず、世の騒擾と無常を憂い出家したが、河内源氏の滅亡後、平清盛ら平家一門の暴虐甚だしく、治承四年(1180年)以仁王から平家追討の令旨を得て、平家追討と源氏再興のため、長子仲綱、次子兼綱を伴い挙兵した。しかし時利あらず、延暦寺、園城寺、興福寺の僧徒の離反にあい、近江如意峰、京都山科と敗退し、宇治橋の合戦にて以仁王と頼政公の一族郎党自害し果てた。

 頼政公の第三子広綱は幼弱のため合戦には参加せず難を逃れ、ひそかに身を隠した。それから五年、平家滅亡以後、頼朝公に見出されて駿河守に任ぜられたものの、世の無常を深く感じるとともに源平の合戦に散った一族の菩提を弔うべく出家して京都山科の真言宗醍醐寺の山上伽藍である上醍醐に隠棲し、その生涯をとじた。
 
 やがて争乱続く時代の中、一族の後継者は身を隠しつつ先祖の菩提と無常の世の中を見据えて天台宗西光寺を山城国(京都府洛北)愛宕郡百橋谷に創建した。


天台宗から浄土真宗へ

 11年も続いた応仁の乱では洛北の西光寺も平穏ではなく、兵火に遭い堂舎尽く灰燼に帰し、荘園のつてを頼って越中国射水郡に下った。京よりともに同道した家司筏井家は射水郡の庄川に定着して墾田開拓に励み、寺族西光寺は小矢部川の流域、射水郡守山村百橋に拠を構え、氷見郡との境、二上山の両麓である川西一帯を教化したと推測される。(かつての寺跡は現在の百橋集落ではなく、百橋地番を持つ、板屋と岩坪の間、アクアパレスの近くではないかと推定される。)

 室町時代文明5年(1473年)、時の住職証光は本願寺第8世蓮如上人より西光寺の寺号と釋証光の法名を許されて天台宗から浄土真宗に改宗し、浄土真宗西光寺の開基となった。以後その系譜は現代まで28代を数える。


その後現在の地に移転するまで


 江戸時代寛文年間(1661年~1673年)に岩坪村に移転する。

 岩坪村に移った時代には西光寺は関東の親鸞二十四輩の一人、性信房開基の坂東報恩寺(現在東京都台東区東上野6丁目)の下にあったことが古記録から窺われる。 (西光寺寺宝である「親鸞聖人絵伝」四幅を入れた箱蓋に「御絵伝 宝永六年(1709年)8月20日報恩寺下越中岩坪村西光寺」と記されている。)

 天保2年(1831年)に現在の地に移転した。


阿弥陀堂改築

 現在の地に移転するより前に建てられた(と推測される)阿弥陀堂は正面九間で近世真宗系の本格的な仏堂であり、見事な向拝や欄間の彫刻を持つが、長年の疲労で構造上に歪みが生じ、外部からコンクリートの柱で支えなければ維持できなくなっていた。そこで平成十五年、門徒一同から寄付を募り、阿弥陀堂、庫裏を総改築した。


現在

 現在の西光寺門徒は小矢部川流域の八口、答野島、手洗野から五十里、守山、二上など、右岸は長慶寺、米島、波岡、大源寺、荒屋敷、立野など、庄川左岸の伏間江、西広上、三本松などいずれも小矢部川、庄川の流域に広がり、他方で二上山氷見側の山麓の堀田、大浦、矢方、万尾、さらに仏生寺では鞍骨、脇矢地、そして窪、柳田、氷見に及んでいる。

 寺勢はますます広がり、伏木、砺波、大門、小杉、富山は言うに及ばず、県外の金沢、東京、大阪、北海道、さらにはブラジル等海外でも多くの門徒衆が活躍している。


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