富山県高岡市の浄土真宗の寺院です

秋の夜長

  • 2019年9月18日
  • 2025年2月2日
  • 2019-2015
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最近、法要の場で、気がついた事がある。それは法要といえば、足がしびれて、難行苦行となることである。まあ、それもたまにはいいかなと思わなくもない。高齢化が進み、多くのお年寄りが参列される。平均年齢が男で八十歳、女で八十八歳という。日本では百歳を越えた人が約七万人いるというから、相当な超高齢社会である。そんな中で、先祖の年忌法要というとお年寄りの仕事のような気配さえあるが、しかし次代を背負う若者?、といってももう六十代、七十代の方々であるが、超高齢者を含めて、皆さんかなり足腰が辛い様子である。もっと若い世代の若者になるとまったく正坐ができない。お経が十分もすれば、もう足がしびれて終わっても満足に立てない。

昔の日常生活が著しく変化して、畳に座るということがほとんどなくなって、いまや食事は椅子とテーブル、日頃はソファーに座るというスタイルである。お陰で日本人の身長が伸び、足が長くなったという説があるようだ。日本の長い間の生活習慣が大きく変化し、西洋化したということであろう。寺の法要や行事でも、椅子が欠かせない。お年寄りは坐っていられないからである。それは勤行する僧侶方も同じである。長い勤行になると一時間にもなる。じっと坐っているということは正に修行となる。法要の終わる頃になると、立つべき準備をする。痺れた足を交互に伸ばして、しっかりと立てるかを確認するのである。それでもいざとなるとよろけてしまうことが多い。

各家の法要に出向くと、まず、お年寄りが自ら椅子を持って来て、足が痛くて座れないからねと言い訳して、後に座席を確保する。よって前に座るのは当主である。さらに前には孫達が無理矢理座らされる。これからが地獄である。と言うわけで、お経は短いほど喜ばれる。経後の説教もできるだけ簡略にした方が感謝される。とはいえ、あまりに省略して粗末にするわけにもいかない。このあたりが微妙な雰囲気である。まして年忌がいくつか重なって行われる時には、そうもいかない。途中で蝋燭を立て替えたり、仏飯やお花を取り替えたりする時には、途中休みとなる。みなさんこの時とばかりに足を伸ばしてさすっている。一休みしたことろで、後半のお経となる。

西洋化した日常生活をおくる今の若者達は別として、超高齢化した老人達が足腰が弱り、身体に不自由が訪れたとしても、それは特別なことではない。「歳をとることは、生きている以上仕方がない。」であれば、有史以来初めての超高齢化社会を迎え、何らかの覚悟が必要であろう。最近読んだ本の一節を披露する。「もしかしたら、還暦とか、古稀とか、喜寿、米寿などといった年齢の節目は、ただ単に長寿を祝うためのものではなく、身体の不自由の発生への予告であり、痛みや疼きが生まれることへの合図であり、バランス感覚の衰えの警告などでもあったのかもしれぬ、と反省を強いられるような気分を覚える。」(『老いのゆくえ』黒井千次 中公新書2019.6)さらにこの著者は云う。「老いと病いは車の両輪の如く一対のものとして出現する」と。

なんと寂しいことか。歳は取りたくないといって無駄な抵抗をしても、本当に無駄である。歳を取ると次第に祖父・祖母、両親、また先輩やら同輩の友人やらが、この世から消えていなくなる。時には自分よりも若い人さえもが亡くなる悲劇が起こる。周りには誰もいなくなり、高齢化社会を生き延びた高齢者たる自分が佇んでいるのみである。寂寞とした気分になることが多くなる。しかし一方でよくもここまで頑張ったなという充実感がないわけでもない。この感覚が相半ばする今日この頃である。昨年は古稀のお祝いをしていただいた。感謝感謝!!さりながら、身体の不自由に対する不安も覚悟する時かと思われる。来し方、行く末を見つめる秋の夜長か。 

令和元年九月十三日 中秋節の夜

南朝斉・王融の漢詩「遊禽暮知反」の一節 
空度明月輝(空しくる 度(わた)る 明月の輝き)
=秋の満月がむなしく夜の空に輝いて過ぎてゆく。

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