長寿社会、高齢者が増加している今日、高齢者の老後の暮らし方をめぐる本が多数出版されている。老後資金や、年金、さらに健康問題、介護の状況、遺産の整理など、いろんなご意見やご忠告を拝聴するに、おやっと首を傾げることがある。これまでの価値観を左右するような老後に対する開き直りとも受け止められかねないものもある。一例をあげると、「老後はお一人様が幸せ」という、朝日新聞に投稿された富山県上市町出身の社会学者の上野千鶴子さんの記事である。大阪府門真市の開業医、辻川覚志先生の著書『老後はひとり暮らしが幸せ』を引用して、独居高齢者のほうが、同居者よりも、生活満足度が高いという。同居者が増えるほど、ストレスが溜まるそうだ。お一人様の上野千鶴子氏は、辻川先生のこの統計的データに大いに意を強くしたそうだ。負け犬の遠吠えと言われなくて済んだということか。
上野氏とほぼ同年の私としては、同じく老後に関心をもっていても、どうも、その独り者の身勝手さに賛同致しかねる。確かに子供が何人、孫が何人いるということではないだろう。子供や孫と同居するか、しないか、独居するかしないか、ということである。確かに古典的なテーマである「嫁姑の争い」や二世代、三世代同居となると狭い家での窮屈な生活、また若い者と老人との食生活や生活感覚の落差も問題である。同居しようにも、長命な老人がいるのが現実である。親の介護と遺産相続との関係も無視できない。介護した長男の嫁には親の遺産は相続されない。現代社会が直面する課題は従来の法制度やしきたり、古来からの慣習という観念では解決できない状況にある。
そこで、やっぱり面倒なしがらみから解放されたお一人様がよいということになるのであろうか。気軽に自由に、束縛から逃れて、お一人様。あとは自己責任ですよということではないか。一方で、驚くべき記事があった。ある週刊誌に、老後になって要らないものはというアンケートに女性陣から、真っ先に上げられたのは、なんと「夫」であった。定年を過ぎた退職後の亭主どもが濡れ落ち葉と言われて久しいが、世も末かと慨嘆することしきりである。さらに追い打ちをかけるニュースがあった。夫が死亡してから、妻が死後離婚届(姻戚関係消滅届)を役所に提出するという。夫の親兄弟とは無関係になりますということである。煩わしい姻戚関係にはもうこりごりということであろう。家族だけでなく、親戚という概念も大きく変ろうとしているのかもしれない。お一人様志向が世に蔓延しているようである。「悩みの出所は家族から」ということか。これは重大な喫緊の課題として待ったなしである。
いま、当面の問題は、そういう自己完結的なお一人様の話ではない。お一人様にも親兄弟はいただろう。兄弟はともかく、少なくとも親がいなければこの世に存在しなかったはずである。自然な流れとしては、まず両親はお一人様よりは先に亡くなっているだろう。大切な親様を懇ろにお見送りになったにちがいない。自己完結的なお一人様を見送る人はいないが、それは今回は問題としない。問題となるのは、親の抱えていた遺産や遺物、さらに人間的関係性の後始末である。残された遺産が少ない方が、むしろもめ事が多いそうである。金持ちけんかせずということか。しかし今回は、遺産をめぐる兄弟けんかなどという湿った話ではない。現実問題としての後始末である。
最近衝撃的な本が出版された。『老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路』(野澤千絵 講談社現代新書 2016.11)である。今の日本には空き家が約800万戸、さらに15年後には2100万戸を越えるそうである。つまり3戸に一軒が空き家となる計算となる。にも関わらずなお住宅の供給が続いている。住宅業界は新たな宅地開発と新築住宅建設に余念がない。大きな道路が通った新市街地には、大型のスーパーやコンビニが広い駐車場を構えており、そこでは何でも揃い買い物には誠に便利である。新開発の住宅地では、何所を見渡しても同じような、若者向きの瀟洒な戸建て住宅が軒を連ね、おとぎの国にでも来たかのような錯覚に陥る。一方で放置される古びた住宅や老人しか住まなくなった団地など。不便な立地にある団地や築云十年になる古住宅はまったく売買の対象にはならないそうである。子供たちはすで別の場所に家を新築して住まい、もう親の家には帰らない。早くに子供に渡しておけばよかったのであろうが、長生きがそれを妨害している。そういえば、確かに近所でも空き家や老人が一人でしか住んでいない住宅が目立つようになっている。やがてその独居老人が死ねば、もう空き家である。旧市街地は寂れて、歯の抜けた櫛のように、空き家や空き地が点在する現状はなにか空しく、寂しいかぎりである。誰も住まなくなった家はやがて朽ち果てて行くであろう。しかもそのままにしておくと、衛生面での問題や、防犯上の問題など、近所からも苦情が寄せられることが多くなった。遺産相続問題も絡んで、売るに売れない、放置屋敷がゴミ屋敷などと呼ばれて、話題となっている。そこで最近ではそういう住宅を行政が取り壊しや撤去の代執行できるような法律ができたそうである。住宅の終末期問題と著者は指摘する。仮に後継者がいても、なにか不動産に対する神話のようなものがあり、ずっと持ち続けると価値が上がるような成長神がまだ続いているのだと思われる。あるいは親の残した遺産を処分できない不決断か、社会の停滞は意外な人間の心の迷いを反映している。もう負動産なのだという。肥大化した物欲にとらわれた現代社会の精神的な貧しさを物語る。
住まいとは一体なんの為のものか。つまり雨露を凌ぎ、狭くても心安まる家族が暮らせる衣食住の場所に過ぎない。
鎌倉時代の動乱期に『徒然草』を書いた吉田兼好は云う。
「人の身に止む事をえずして営む所、第一に食う物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。飢えず、寒からず、風雨に侵されずして静に過ぐすを楽しびとす。」
そんな中にも花鳥風月を楽しみ、世の無常に備えたのである。短い人生の中で、何が大切であり、なにが不要であるかを自ずと選択せざるを得ない厳しい時代であったのである。今は長すぎる人生をもてあまし、見果てぬ欲望にまみれて、充実した人生を送ることができない。つまり与えられた人生を感謝の心をもって過ごせないのである。
同じ時代に『方丈記』を書いた鴨長明の住んだ方丈とは正に一丈四方の詫び住まいであった。
「その西に閼伽棚をつくり、北に寄せて障子ををへだてて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、前に法華経を於けり。」という。これで「一身を宿すに不足なし」
現世と来世とを結ぶ仏に身を任せる心のゆとりがあったのである。今の人にはそんなゆとりはまったくない。いつまでも現世が続くという幻想に捕らわれている。残ったものは亡霊の住むゴミ屋敷か近所迷惑な廃屋か。
さて、ところが、吉田兼好も鴨長明も実はお一人様なのである。鎌倉時代と現代のお一人様とでは精神が如何に違うかをかいま見せてくれる。
平成29年3月8日 平安の寓居にて
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