富山県高岡市の浄土真宗の寺院です

格差社会

  • 2016年12月7日
  • 2025年2月2日
  • 2019-2015
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最近高齢者の車による暴走事故がしばしば報道される。高齢ドライバーのアクセルとブレーキの踏み間違いによる歩行者への死傷事故や、コンビニへの突入、高速道路の逆走など、連日のごとくテレビや新聞紙上を賑わせている。それに伴い、高齢ドライバーの免許返上が噂される。大都会では免許が無くても買い物や病院通いは問題ないだろうが、近くにスーパーもなくコンビニもなく、病院も、銀行・郵便局も、市役所も近くにない過疎地の田舎暮らしにとっては、車のない、つまり足のない生活は到底無理であろう。まして足腰の弱った年寄りに時間を掛けて買い物や医者通いを強いることは、弱者いじめとしか映らない。代替交通機関もなく、不便な地域では、免許返上など、滅相もない。さらに何歳から高齢者とするかはまったく個人差がありすぎる。80,90歳でもまったく問題なく運転出来る人もあれば、60,70歳でも認知症や身体不自由で叶わない人もいる。一律に免許返上とはいかない。

そこで、最近云われているのが健康寿命である。平均寿命はいままでよく聞かれた。日本人の平均寿命は、男80.79歳、女87.05歳だそうです。世界で一二を争う長寿国なのである。平均余命ともいうが、あくまで平均である。みんなが確実にその年まで生きてゆけるということを保証したものではない。もっと長生きしている高齢者も多い。90歳はおろか、この日本で百歳を越えた人が何万人もいるという。しかし健康寿命となると、男71.11歳、女75.56歳といわれている。なんと10歳近く差があるのである。健康寿命をもとに免許返上などといったら、おそらく今の政権は崩壊するであろう。高齢者福祉と介護に多大の予算を費やしているので、前期高齢者・後期高齢者ともども、もっと自己責任で頑張って、介護や施設のお世話にならないように願いたいというのが本音であろう。一体なにを基準に考えたらいいのかまったく分らない。

師走に入り、年末恒例の葉書が舞い込むようになる。すなわち喪中葉書である。つまり今年中に家族や親族で亡くなった人がいる方から、来春のお年賀のあいさつは遠慮いたしますという事前の連絡である。我が家にもぼつぼつ届くようになった。すでの10枚を越えた。そこには驚くべき実態が明らかとなる。大抵は80歳から90歳代でのご逝去がほとんどである。百歳を越える人もある。

しかしある人、仮にA氏としておこう。A氏からの喪中葉書。

母B子は○月○日64歳で亡くなりました。さらに祖母C子(奥様の祖母)は囗月囗日に91歳で亡くなりました。」つまり、同じ年に彼の母親は64歳で、奥様の祖母は91歳で亡くなったということです。人の死に待ったなしということか。しかもなんという不公平な死亡年齢であろうか。二人の年齢を分け合って、平均するわけにはいかないのだろうか。世の中の実態とはそういうものなのである。決して平等でもなく、平均でもない。中には「家内が56歳で亡くなりました。」「弟が36歳で亡くなりました。」「妹が62歳で亡くなりました。」というのもある。

諸行無常とはこういうことか。「すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、ひとつの息長くたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそおいを失いぬるときは、六親眷属あつまりてなげき悲しめど、更にその甲斐あるべからず。」(蓮如 五帖目御文)まさにそういう光景が迫ってくる。人の命には平等も、平均もない。不公平、不平等である。これぞ無常である。平均寿命まであと何年ある、健康寿命まではまだ大丈夫だなどといってはいられないのである。自分自身でさえもわからない。命に関してはまさに格差社会である。それが本当の実態なのである。平均だの、平等などという統計学に惑わされてはいけない。静に締切の時間が迫っている。締切(最終期限)の事を英語ではDead line というが、死の期限が迫っているのだ。今、生きていることに深く感謝し、人としての生きる意義を考えることが肝要である。

そういう親鸞聖人は90歳で往生された。弘長2年(1262)11月28日のことである。この11月28日というのは旧暦である。これを新暦(太陽暦)に直すと1月16日になる。つまり、真冬の寒中に、底冷えのする京都市中でお亡くなりになったのである。最後まで念仏の声消えること無く、やがてその声の途絶えた時が往生の時であったと伝えられている。

合掌
平成28年12月