長年使ってきたリュックを買い換えた。もう十年近く私の背中におんぶお化けのように背負われて働いてきたが、色は褪せ、形が崩れ、隅々がほどけてきた。何よりも、どうも加齢臭がするようになっていた。それもそのはずで、女房殿よりも私の身近にあって、つきまとって離れなかったのだから。新しいリュックを探しはじめたが、なかなか満足すべきリュックにお目にかからない。古リュックもなかなかいい仕掛けが気に入って、同じような仕組みのものを探すのだが見当たらない。そう簡単には席を譲ろうとしないのである。それでもようやくまったくイメージの違うリュックを購入することができた。年寄りがものを捨てられなくなるのがよく分るようになった。名残が惜しいがしかたがない。古リュックよ、有り難う。長い間お世話になりました。感謝感謝!!もう、「おまえとも見納めだな」と、引導を渡したものの、逆に考え込んでしまった。
そう、古リュックは十年近く使った。今度の新しいリュックも十年使うとすると、何歳まで使うとこになるであろうかと。答えは七十八歳。そんな年になってもまだ新リュックを背負ってあちこちをうろつき廻ろうというのか。もしそうだとすると、こんなリュックを背負った老人を見かけたら、痴呆症による徘徊老人ですから、警察にご一報ということになるか、足腰がたたず、リュックの方から引導をわたされるかであろう。ということは今度の新リュックは私にとって最後のリュックということになろう。齢を重ねるということは、最後を意識するということであろうか。最後のリュック、最後の車、最後のパソコン、最後の旅、最後の晩餐など。最近京都で「最後の晩餐に訪れたいほど好きな店」という特集を組んだ雑誌が出た(Men’s Leaf V03 2016.7 )。要するにレストランの宣伝誌なのだが、あまりの大げささに驚いた。人生最後に何を食べたいかと尋ねられるといろいろ迷ってしまう。というより、もうその頃には食べ物が喉を通らなくなっているだろう。今のうちにお早めにお出で下さいという趣旨だろう。見納めの風景、見納めの別れ、、見納めの集まり、見納めの晴れ姿など。しかしこれらはこちらの気持ちと意向で決定することができる。なかには最後の言葉を考えて準備する人もいる。先頃NHKテレビで「人生の終い方」という特集番組が放映された。落語家の桂歌丸さんが進行役で、様々な余命の少ない人の終い方を紹介していた。桂歌丸さん自身が、長年勤めた「笑点」の司会を後輩に譲った所であった。後を託すと言うことが如何に難しいことかと思われる。さらには生前葬として生きている内から葬儀を執り行う殊勝な方さえいる。自分自身の能力と意志と判断で決めるのだからそれは自由である。
ところが、最後の砦、つまり終の棲家はそうはいかない。最後まで自宅の畳の上で死にたいと願望しても、希求しても、容易には許してもらえない。肉体が不自由になり、身動きがとれず、さらに意志も斑になり、介護の渦中に陥った場合、仮に息子や娘、さらにはその嫁や婿殿にお世話になることが出来るとしても、もう、自分の判断と希望が叶えられる事態ではない。そちら様のご意向が優先されてもしかたがない。そう、介護施設や養老施設が待っているのだ。その名も、「ひだまりの郷」「やすらぎの里」「あっとほーむ清水」「きぼうの家」「光が丘」とか、これらはまだ良い方で、カタカナとなるともっとややこしい。「シニアヴィラ」「ロングライフ」さらには、「ユートピア」「ベストライフ」「チャームライフ」など、どう考えても、人を小馬鹿にしているとしか思われないネーミングである。そういう魅力溢れる施設に送り込まれるのである。子供に迷惑を掛けたくないとお思いの方は覚悟されるがいい。ましてや、そういう面倒を見てもらえる家族のいない人はより深刻である。自分で往く先の事を決めて、事前に周知し、関係方面に依頼しておかねばならない。
今のうちに見納めの時に備えて、自宅をじっと見回して、最後の風景を心の奥底に保存しておかねばならない。そして、これから行く先の阿弥陀さまのお浄土の光景は、そう、西方遙かに貴方を待っています。暮れゆく夕日を眺めながら、その先にある西方極楽浄土を想い描いてご覧なさい。人生の夕暮れ時、切ないままならぬ生へのこだわりも、最後は脱ぎ捨てて、浄土へ帰る時を待つ。お任せあれ。禅の言葉に、人間は「本来無一物」という。人間はこの世に何も持たずに生まれてきて、旅立つときにも何も持っていくことは出来ない。
彌陀成佛のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり (親鸞聖人 『浄土和讃』より)
彌陀大悲の誓願を
ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく
南無阿弥陀佛をとなふべし (親鸞聖人 『正像末浄土和讃』より)
平成28年6月30日