平成28年(2016年)新年は暖かく穏やかであった。暖冬による不都合はあろうが、まずは平穏な年明けを寿ぐべきであろう。しかし世の中、世界を見渡すと、不安と戦乱の渦巻く年明けであった。日本を取り巻く情勢も油断がならない。
さて、例年12月になると年賀状の準備にかかる。また一方で喪中葉書がちらほらと舞い込むようになる。大抵は80歳、90歳を越えた親の見送りを終えた喪中葉書である。長寿を経て往生された年寄りを、介護の果てに見送りを済まされたことであろう。しかし中にはそういう目出度い大往生の話とは限らない喪中もある。奥様を亡くされた高齢の大先生もあり、また若き働き盛りの方をなくされたご家庭もある。今後どうされるのかなと気を揉んでもなすすべがない。もっと驚くのは、最近では個人情報の関係か、その方のご逝去をまったく知らなかったケースがある。もうすでに、何ヶ月も前に亡くなっており、初めて喪中葉書で知ったものの、いまさらどうしようもない。いかんせん社会的絆が薄くなっていることが感じられる。その方は家族や身内にとって大切な人であったことは言うまでもないが、その人の人生の中で多くの知友、同僚など、地縁、血縁、社会縁を通して大勢の人との交流があったと思惟される。人間は孤立した存在ではなく、社会的存在でもある。人生最後の局面でのお見送りが寂しいものであってはならないと思う。喪中葉書を見る度に様々な人生の終活に想いをはせる。
いよいよ年の瀬を迎える頃、年賀状を出すべきリストを見ながら考える。今年印刷した年賀葉書の枚数に限りがあるからである。随分昔にご一緒して仕事をしたが、もう何十年も会っていない人や、こちらから何年もお送りしてもご返信がない方など、出すべきか、やめるべきか、どうしようかなと迷う。それでも断を下して一応新しく送っていただける方への返信のためにとっておくべき枚数を残して宛名印刷をする。今ではパソコンにあるデータから宛名印刷など一時間もあればすぐにできる。便利というかなんとも味気ない話ではある。そうして年末、年の暮れまでには数日をのこして25日頃までには郵便局に投函する。これで正月の元旦には間に合うであろうと一安心する。良い年をお迎え下さいと祈念の気持ちを載せたつもりである。たかが年賀状、されど年賀状である。
正月が明けると、郵便受けにはどっさりと年賀葉書が届いている。お出しした年賀状の枚数より頂いた年賀状の枚数のほうが多いようで申し訳ないが、こんなにも多くの方からお寄せいただいているかと正月早々から心暖まる。そこで、1月は7日過ぎた頃に整理を始める。元旦から遅れて届く年賀状もあるからである。その間にこちらでは出し忘れた方や新しく送っていただいた方への返信年賀状を書く。早く整理を始めても無駄足になろう。その際には住所変更を確認する。今は転居の連絡を年賀状に合わせてお知らせされる場合が多く、注意を要する。転勤やご家庭の事情など、様々ではあるが、結構転居される人が多いのにはびっくりする。またこの年になると定年になりましたというお知らせも多い。中には年輪を重ねて、体調に変化を訴える葉書さえある。人ごとではないと心配する。なんと言ってもすでに前期高齢者なのだから。同年齢の人が集まれば、健康の話か孫の話の他はすることがない世代である。高血圧、糖尿病、癌だのと、また薬と病院の話となると盛り上がる。実に詳しい。インターネットの普及で、情報や知識は溢れている。みんな死にたくはないのである。お互いに頑張ろう、しかし明日のことは分らないからどっちが早いか知らないぜということで大団円となる。早く逝ったほうが沢山香典がもらえるという不届きな奴もいる。しかし本音は死にたくはない。末期のことはだれも分らない。
一方でインターネット・メールでの年賀状も盛んになってきた。ことに外国からは正月元旦かっきりに送られて来る。しかも写真付で。世界は広いし、早い。日本の年賀状のような情緒はないが、忙しい向きにはいいかもしれない。しかも切手を貼る必要がない。そういうわけで、一枚一枚チェックしながらリストに整理していると、大体は例年の如く、なんの変哲もなく、義理堅く年賀状の交換が続いている。しかし、中には必ず賀状を送ってくるはずの人からの葉書がない場合がある。「便りがないのはいい便り」などとは考えにくいことがある。やはり年賀状くらいはくれるべきだよと心配する。病気か?身内の不幸か?一家破産か?やれすでにご逝去か?など大体ろくな事は考えない。まあその内に寒中見舞いでも来るであろうとも思うが、それでも来なかったらと余計な心配もする。ところがこちらの心配もどこへやら、大分たってからお詫びとともに実は正月には家族で外国旅行に行っておりましたと、いけしゃあしゃあとして後日のお知らせがもあることもないわけではない。実に羨ましい。一度でいいから、こちらもそういう詫び状を書いてみたいものだ。
ところが、今から数年前に、驚愕の年賀状を受取ったことがある。年明けてから年賀状を整理していたら、じつに亡くなった方ご本人からの年賀状を頂いたのである。こういうことはその前にも、その後にもない。奇跡、いや鬼籍の年賀状である。それは滋賀県にある天台宗の一本山である古刹のご住職、その寺では長吏というが、その著名な高僧からの年賀状であった。その寺は浄土真宗にとっても深い歴史的な関わりがある。当然こちらからも12月には先方に年賀状を発送している。当然その方も毎年の年賀状をご用意されて、出すべき方面に年内に投函されたのであろう。その内の一枚がこちらに届いたと云うことである。じつはその方はご高齢ではあったが、特にご病気とは聞いていなかった。ところが年末に急逝されたのである。まさかご本人ご自身でもそんなに急に浄土に往生することになろうとはお考えにはなっていなかったものと思惟される。まさかのご逝去であった。明日のことさえ分らないのである。正式な本葬は年明けてからであったと覚えている。もちろん多くの方々が驚きと哀悼の気持ちを深くしたことはいうまでもない。すでにこの娑婆に居ない方から正月の年賀状を頂いた、まことに希有な年賀状であった。人生最後の別れのメッセージが年賀状とは、たかが年賀状なれど、されど年賀状である。一年間の無事を喜ぶとともに、新しい年の平安を祈る年賀状に込められた人生の不思議さをしみじみと感ずる。
「今日とも知らず、明日とも知らず」
平成28年正月11日 平安の寓居にて

