ある時、お年寄りのご葬儀が終わり、七日法要の御膳の途中に、その家の若いお嫁さんから、以下のような質問を受けた。
おじいちゃんは、何処へ行ったのでしょうか?」
答え「お浄土です。」(公式見解!)
そこでさらに質問が続く。
「お浄土はあるのですか?」
答え「あります。」(公式見解?)
さて、本当にお浄土はあるのでしょうか。生老病死の果てに、いずれの人にも必ず「死」が訪れる。承けがたいご縁を得て、この世に生を受け、やがてその娑婆の縁も尽き果てる。白骨のみぞ残れりということになる。そしてその先が問題である。肉体が滅んでも、霊魂はまだまだなどという議論をしている暇はない。そのような魑魅魍魎や鬼神の存在を前提とした議論は本来の仏教にはない。加持祈祷やら、お祓いなどをやっても無駄である。死んだ人は帰らない。覆水盆に返らずである。お釈迦さまも仰ったように、すべてのものは無に帰するのである。ああなんとも寂しい限りである。生前の姿はすべて夢幻か?別れとはなんと残酷なことだろう。主を失った生活の各場面は一体何だったのだろうか?その人が生きていた証はどこにあるのだろうか。今となっては記憶の中にしかない儚い現象なのだろうか。
ここで元東京都監察医務院長であった、上野正彦氏の話をしよう。『死体は語る』などの名著で知られる、上野正人氏は長い間、約2万体という不審死や事故死などの変死体の検視にあたってこられた。警視庁から持ち込まれる死体の死因を特定し、そこに犯罪事件の疑いや病死との判別を続けてこられた方である。人の死体は上野氏本人と何の関係もない、まさに単なる物(仏)でしかなかったと思われる。それまでは彼にとって死とは肉体と精神の滅んでしまうことであった。
しかしその上野氏に衝撃的な事案が発生する。読売新聞2010年10月10日のインタビュー記事を見てみよう。40年以上連れ添った奥様を、末期ガンの発見からわずか40日で見送らねばならなかった。医者でもある上野氏にとって家族の病変を見過ごしたという悔い、さらにその死を無力のままに受け止めねばならないという苦悩に陥ることになった。それでも最後まで病床の奥様に寄り添いながら、穏やかなその死を見届けることができたのはなによりであったと思われる。それまでは他人事の「死」であったが、そこで初めて自身の問題として「死」に直面したのである。妻であり、身内である家族の死に向かい、その別れの非情なる現実をどう考えるか、苦悩の果ての答えはこうであった。それはまた自己の「死」をも見通すこととなった。
「私はずっと、法医学に携わってきました。死はナッシング、体と精神は滅びてしまう、と考えていました。でも、妻は今も、私の心の中にいて死んでいない。つながっています。そして、あの世とやらで、妻に再会するのを楽しみにしている自分がいるのです。」
確かにお浄土はあるのです。
平成24年12月31日 除夜の鐘を聞きながら

