世界の三大悪妻をご存じであろうか?一人はギリシャの哲学者ソクラテスの妻クサンチッペである。二人目はザルツブルク(現在オーストリア領)の天才作曲家モーツァルトの妻コンスタンツェである。三人目はロシアの文豪トルストイの妻ソフィアである。いずれも夫である世界的著名人の妻としてその名声に預っている。
これからの話は世界の名曲を残したモーツァルトの妻の話である。モーツァルトの音楽については、ことに癒し系音楽として、病院などでBGMとして多くの人はそれと知らずに必ずどこかで耳にしているはずである。生涯に626曲以上の優雅で優しい名曲を作曲している。さて、事典によれば、モーツァルトの妻コンスタンツェは「彼女は浪費家で家事の能力がなく、夫の今わの際に遊び歩き、遺品の楽譜が高く売れるように、ワザと破りまくった」ということです。また「そのような事をして、モーツァルトが死去した後に別の人と再婚した事も、悪妻として呼ばれるようになった要因なのでしょう」とある。
さて、話をもとに戻して冷静に検討しよう。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日ザルツブルクに生まれた。父はザルツブルク大司教宮廷楽団のバイオリン奏者レオポルト・モーツァルトで、バイオリンの教則本を書くほどの正統な音楽家であった。モーツァルトは25歳の時、故郷ザルツブルクを離れ、当時音楽の都であったウィーンに移った。1782年26歳の時、ウェーバー家の三人娘の次女コンスタンツェと結婚した。彼女は当時20歳であった。三人娘の中で音楽的才能にも美貌にもあまり恵まれない次女であった。モーツァルト自身が「醜くはないが、美人ではない」と言っている。確かに残された肖像画を見ても頷ける。この結婚について父レオポルドは真っ向から懸念を抱き、認めようとはしなかった。モーツァルト家はローマ法王直轄領の大司教宮廷音楽団の由緒正しい音楽家であり、一方ウェーバー家はミュンヘンからウィーンへ移住したいわば流れ者の音楽家一家であり、到底父として承服できない結婚であった。しかしモーツァルトは結婚を父の承諾なくして強行した。翌年妻と長男を伴い故郷ザルツブルグに帰郷しているが、わだかまりは解けることがなかった。一度父レオポルドはウィーンを訪ねて息子の活躍に目を細めたが、嫁と舅との仲は融和の方向へは向くことがなかった。モーツァルト31歳の時父レオポルドが67歳で死去したが葬儀のために帰ることもなく、以後全く故郷ザルツブルグに帰ることはなかった。モーツァルトが35歳で亡くなるまで、わずか9年間の結婚生活であった。その間に三男二女をもうけているが、生き残ったのは長男・次男のみで、あとは幼時に亡くなっており、また、その二人もモーツァルトの才能を受け継ぐことなく、また、生涯独身であったため、その後モーツァルト家は断絶した。確かに家事も育児の才能もないといわれてもしかたがないかもしれない。
モーツァルトが亡くなったのは1791年12月5日で、享年35歳であった。天才薄命である。ライバルの音楽家による毒殺説もあるが、未だに明らかではない。この時、葬儀はごく簡単に行われ、コンスタンツェはマルクス墓地の葬場まで見送ることもなく、よっていまだに埋葬地点は不明で、もちろん墓もない。これも不評の最大の要因である。29歳で未亡人となったコンスタンツェは、夫の残した楽譜を出版したり、音楽会を開くなどして生活していったが、やがて18年後47歳の時、48歳のデンマークの外交官ニッセンと再婚する。これも悪評の一因であるが、しかしこの再婚相手はモーツァルトの音楽をこよなく愛して、そのため、モーツァルトの楽譜や手紙などを収集・保管し、さらに彼の伝記をも著わしている。やがてこの後夫も65歳で死去し、いよいよコンスタンツェは寡婦となった。
さて、以上はごく簡単に経過を説明したが、この程度のことはモーツァルトの研究書には何処にでも書かれてあることである。それでどうした?というのが本論の主旨である。悪妻コンスタンツェはその後どうしたのであろうか?モーツァルトの音楽にとって最大の幸運がもたらされるのである。なんとコンスタンツェは80歳まで長生きするのである。当時としては驚異的な年齢を生きたのである。その間後夫であったニッセンの勧めもあろうが、モーツァルトの書いた楽譜はもちろん手紙やスケッチまで多くの資料が収集・保管され、散逸せず今日まで伝わるという幸運に恵まれるのである。おそらく彼女の最大の貢献はひたすら長生きしたことであろう。亡くなってから220年以上も前の作曲家のなかで、現代までこれほど楽譜や資料の残された作曲家はいない。今日モーツァルトの音楽が身近に聞くことができるのもこのおかげなのである。
さらに不思議な縁が続くのである。その後、コンスタンツェは80歳で生涯を閉じるが、なんと驚くなかれ、死去したのはモーツァルトの故郷ザルツブルグである。何時、どのような理由でウィーンからザルツブルグへ移住したのかは分らない。嫁・舅の確執にもかかわらず、しかも一度行ったことがあるのみで、まったく歓迎されることのなかった、無縁の地で死去した。さらに驚くなかれ、彼女の墓はなんと舅レオポルドの傍らにある。ザルツブルグの街を見下ろす丘にある、聖セバスチャン教会の中庭の墓地に、むしろ舅と息子の嫁の墓が並んでいるといってよい。墓を造くることさえしなかった夫モーツァルトが亡くなって51年後、舅が亡くなってから55年後に、その舅の隣に墓を設けた意図は計り知れないが、不思議な縁があったのであろうか。 人は死んだ時にその人の生涯の総決算が行われるというが、これほど毀誉褒貶に満ち、また不思議な軌跡をたどった人も珍しいであろう。墓は何も語ってはくれないが、思いもつかぬ人生の不思議なからくりが見えてくる。本当にコンスタンツェは悪妻なのか、または、本当は良妻なのであろうか?悪妻・良妻~不思議な縁である。
さだまさしの「関白宣言」ではないが、「俺より先に死んではいけない。たとえわずか一日でもいい。俺より早く逝ってはいけない。」
どうか、奥様には長生きしていただきましょう。世のため、人のため、そして俺のために。
合掌
- Prev
2012年7月25日前期高齢者
