少子高齢化が叫ばれて久しい。今は確かに九十歳や百歳の人も珍しくない。いわゆる長寿社会である。日本人の平均寿命は男女とも世界の一二を争う。老人大国と呼ばれる由縁である。さらに団塊の世代も定年を迎え、非生産活動の果てに、年金生活者となろう。確かに健康で、長生きし、第二の人生を謳歌するもよい。 百歳になっても聖路加病院の名誉院長を務め、患者の診察に、講演にと多忙な人生を送る日野原重明の長生きの秘訣や、健康志向の食事に関する教則本まで、健康ブームは止まるところをしらない。しかしここまではあくまで総論である。
ところが、齢を重ねるうちに、やがて身体に変調をきたし、不都合な身体となる。病院通いが日課となり、その内に介護のお世話になるかもしれない。そう、健康、否、寿命そのものも無限ではない。自分だけは例外だと高をくくっていても、気がつくと廻りは誰もいないということになる。八十、九十、百歳ともなれば、無論両親などいるはずもない。兄弟姉妹とて、同様な状況ではお話しにならない。社会で働いていた時の上司や同僚、後輩などいうに及ばない。近所に知り合いさえいないことになる。
それ故、そのような超高齢者が亡くなっても、だれもお弔いにも来てくれない。寂しい限りの家族葬というのも、いや直葬というのも、やむを得ない現実かもしれない。まして、追悼法事など勤めてもらえないことはいうまでもなかろう。しかし親鸞聖人の七百五十回忌とまでも言わないが、せめて二十三回忌くらいまでは勤めろと子供たちには願ってやまない。
八十、九十、百歳を過ぎた高齢者の息子や娘はもう、定年前後の老人一歩手前である。まだ結婚でもして、孫でもいれば幸いであろう。最近は結婚しない世代も多い。少子化の勢いは止らない。また、夫婦揃って長寿社会をエンジョイできればそれにこしたことはない。しかし、寿命は誰にでも平等に与えられているわけではない。早く妻を亡くして、長寿を生きる夫、また、夫と分かれて随分長生きする妻も珍しくない。後者のほうは案外昔から多いが、最近多いのは前者、つまり妻を看取ってから、長生きする男性である。まめな人なら心配はしないが、生活能力が不足気味な男はどうしても孤独の気配が濃厚である。やもめ男になんとかである。
このように将来が見通せない「諸行無常」の現況の中で、一体長生きして、本当に幸せなのだろうか?あなたは何時まで生きるつもりですか?これが今回のテーマである。
ついこの間読んだ興味深い本に1950年生れのエッセイストであるの『「おじさん」的思考』(角川文庫)がある。そのなかに「多田先生(内田氏の武道の先生)が「病とともに生きる」ことの大切さを繰り返し強調されたのは、そうすれば「健康にもどる」からではない。そうやって生きる方が人間は運命に与えられた時間を豊に、かつ愉快に過ごすことができるからである。」という。
つまり「幸福な人とは、快楽とは「いつか終わる」ものだということを知っていて、だからこそ「終わり」までのすべての瞬間をていねいに生きる人のことである。」それぞれに与えられた人生の時間のなかで如何に生きるかが重要であり、単に長生きという時間の長短ではないということか。
しかし一方で長生きしたいという欲望にはますます果てしもなく強くなってきているようにも思える。それに対しても内田氏は「「やだやだ、もっと生きて、もっと快楽を窮め尽くしたい」と騒ぎ立てる人は、そのあと長く生き続けても、結局あまり幸福になることのできない人だと思う」
とはいえ、一方で世界を見渡すと、人間の命へのこだわりは限りがないようにも見える。倫理的制限を超えた臓器移植の果てしもない広がりと、金銭による臓器売買の悪用やクローン技術や万能細胞技術による再生医療の問題、など、生物としての自然の摂理の限界を無視し、人類のコントロールを不能におとしめるような、医科学というあくまできれい事を装った欲望の挑戦をどう考えたらいいのだろうか。人間の自己の命に関わる固執への欲望の限りのなさは、古来から多くの悲劇や喜劇を産んできた。
イギリス在住の日本人作家で、イギリスの芥川賞にもあたるブッカー賞を授与されたカズオ・イシグロの最近作に『わたしを離さないで』(”Never Let Me Go” 土屋政雄訳 ハヤカワ文庫)という小説がある。映画にもなったようである。雑駁な理解で説明すると、つまり、クローン技術で、コピー人間を作っておいて、社会から隔離して育て、本人に身体的な不都合が発生すると、その都度臓器を移植するという。そのコピー人間の側の人間として生き続けたいという魂の叫び声を描いた、極めておぞましいストーリーである。
臓器提供が完了すれば、当然コピー人間の役目は終了し、命と身体は消滅する。そうようなコピー人間はこの世に存在すらしなかったことになる。また、この小説にはコピー元の人間は一切登場しない。コピーされた人間の命を奪っても、なお自己の長寿を望むという、ちょっと寒気のするようなあまり楽しくない小説である。
やがて人類の往く果てに、神・仏をも冒涜する世界が待っているような気がしてならない。与えられた限りある命を精一杯生きる姿こそが貴いのであって、他人の生命や、クローンによるコピー人間の命の尊さを無視した長生きは果たして「善」なのだろうか?。臓器移植やクローン人間には、疑問を呈せざるをえない。
2011年8月16日 京都大文字五山の送り火の夜に
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2011年4月8日三月十一日
