富山県高岡市の浄土真宗の寺院です

三月十一日

  • 2011年4月8日
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平成二十三年三月十一日に起きた東北・関東大地震は、死者一万七千人以上、行方不明者一万数千人、合わせて約三万人に迫る犠牲者を出す大災害となった。

連日放映されるテレビで、地震と津波による猛威によって多くの人命が一瞬にして奪われるという理不尽な場面を見るにつけて、絶句以外の言葉を失ってしまう。今見ているテレビの画面で起きていることが、現実ではなく、映画かドラマのヴァーチャルな(仮想の)場面であってほしいと願いたくなる。無慈悲な大自然の前には、人の命がいかにもろく、はかないものかと無力感にとらわれる。一方で、未曾有の大災害、想定外の悲惨な出来事とされる。そこにはあくまで埒外にいて、傍観する人の「死」に対する無責任さが見て取れる。本当に想定外なのだろうか、また未曾有のことなのだろうか。歴史を見れば、この地はかって平安時代の初め、1141年前の貞観11年にも、また114年前の明治29年にも地震と津波によって、さらには近年ではチリ地震津波がこの三陸一帯を襲い、甚大な被害をもたらしたことが知られている。多くの死者を出した災害を、自然による想定外の「理不尽な暴力」として片付けているようにも見える。つまり人の「死」を不吉で、あまり歓迎したくない、あくまで例外的な事象として受け止めているようである。

十年前の2001年9月11日に起きたアメリカ・ニューヨークでの貿易センタービルへの飛行機による自爆テロに始まったアメリカの同時多発テロの時、偶然テレビを見ていて、その画面に釘付けになったことを想い出した。その時も最初にこれが現実ではなく、映画の一場面ではないかと疑った。ニューヨークのマンハッタンにそびえるツインタワーの朝の空が青く美しかったことが印象的であった。この時多くの無実の人が犠牲となった。しかもさらにこの想定外の非道な事件は、それ以後に起こるイラク戦争や世界各地のテロによる悲惨な殺戮の始まりであった。この場合は大自然の理不尽な暴力ではなく、人間の起こした極悪非道な殺戮の連鎖であった。しかも中東イスラム教と西欧キリスト教社会との対決とも受け止められている。

前置きが長くなったが、人の「死」にこのように一瞬の無慈悲な死と、看取られ、見送られる穏やかな「死」とがあるということである。なんの咎もなく、他からの圧迫に「よって、その「生」を絶たれる死と、「生老病死」を経て、人生を全うし、生き延びて、やがて各自のあたわりの中で、迎える安らかな死とがある。「死」の問題は「生」との関連で語らなければならない。最近読んだ本から紹介しよう。

大井玄(東京大学医学部名誉教授)『人間の往生 看取りの医師が考える』(新潮新書)

「「安らかな死」を実現させるには、死に往く者にも、死を看取る者のもそれなりに覚悟が必要です。平和な社会で、「死」(望むべくは安楽な大往生)が達成されるには、逝く者と看取る者との息の合った共同作業が、為されるなければなりません。」(中略)

「医療技術による管理が進めば進むほど、死が家族から隠される傾向にあること。死は、家族、そして社会一般から隔離され、抽象化され、結果として、ほとんど神経症的の恐れられる現象になりました。・・・看取る側が向ける愛の対象が、ローソクの炎のようにふっと消えてしまう。「諸行無常」の事実が実感される瞬間です。」

東北の被災地では遺体の収容や確認もできず、さらに弔いや葬儀もできず、火葬もままならないという。先逝く者も、見送る者も、これほど悲惨なことがあろうか。葬式は要らないなどということを主張する偉い方もいると聞きますが、人生を全うすることなく、一瞬にして、非業の内に死を迎えた多くの犠牲者に、せめてお念仏の声でもお届けしたいと思うけれどもいかがなものであろうか。

それにしても「やっぱり、富山ちゃあ良い所やちゃ。地震も起きないし、台風もこんがやちゃ。水不足の心配もないしね。」ですかね。しかし先日富山県東部を震源とする震度1の地震が何回かありましたです。はい。今度は富山?いやいや、そういうことは考えんとおきましょう。想定外!、想定外です。

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