先日たまたまテレビを見ていたら、小説『親鸞』『蓮如』を書いた作家の五木寛之氏がNHKの番組で、インドの仏跡を訪ねるシリーズの再放送をしていた。しかもその時は「仏陀最後の旅」であった。
八十才となられた仏陀は インド北部、クシナガラの郊外、跋提河のほとりにあった沙羅双樹の元で病に伏せられ、遂に永遠の涅槃にお入りになった。そこで、五木寛之氏がさまざまな感慨を静かに語っていた。広大で乾燥したインドの夕暮れの光景と相まって、見る者に深い感動を呼び起こす場面であった。三千年前の仏陀の涅槃に立ち会い、師を失った多くの仏弟子達の悲嘆や苦悩は、いかばかりであったかと悲痛な思いを巡らした。
しかし、所詮浅薄な私にとってもっとも驚きであったのは、あの偉大な覚者である仏陀においても与えられた人生はわずかに八十年の生涯であったということである。今日では長寿高齢社会ともいわれ、八十才はおろか、九十才でも、いや場合によっては百才でも生存可能のようにも見える時代である。そういう観点からすれば古代のインドで八十才といえば、驚異的な長寿であったろう。それでも人生には永遠の旅立ちの時が必ず来るということであろう。それは死ということである。
仏陀の場合は、煩悩などすべての束縛から解脱し、「無余涅槃」にお入りになったという。涅槃とはニルバーナというインド語の音訳であり、中国仏教では、「無為」、ないし「滅度」とも訳している。「寂滅為樂」という言葉もある。これは『涅槃経』にある「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為樂」の一句である。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。」と詠われた、正にそのことである。親鸞和讃(高僧和讃 善導大師)にいう「娑婆永劫の苦をすてて 浄土無為を期すること 本師釈迦のちからなり 長時に慈恩を報ずべし」と。
そこで更に愚を重ねること甚だしいが、もし八十才までの命だとそればと計算を働かせたところ、現在六十二才の私としては、あと十八年しか残されていないという厳しい現実に驚愕、狼狽した次第である。自分と仏陀とを同列に考えるという厚顔無智は、今の平均寿命がほぼ八十才であるとすれば言い訳が通るかも知れない。しかし必ず八十才まで生きるということは保証されているわけではないにも関わらず、八十才までと仮定して計算する厚かましさには冷や汗ものである。「今日ともしれず、明日とも知れず」といつも称えていても、自分だけは例外であろうという根性である。なかなかしぶといことである。
仏陀最後の言葉が『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)にある。それは「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」であったという。すなわち先の涅槃経の一句にある、諸行無常ということであろうか。すべてのものは有為転変する。すべての人は「生老病死」の苦を経て、やがて滅度に至る。「真実信心うるひとは すなわち定聚のかずにいる 不退のくらいにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」(浄土和讃 大経意)。
多くのご先祖様や、多くの師や先輩方、親兄弟、場合によっては友人や子をも見送ってきたことであろう。過ぎ去った過去はもう戻らない。娑婆の世ではもう二度と会えない。しかしそんな日々の生活の中に於いて、命のあらん限り、怠ることなく努力、修行すべしと解釈できよう。特別な難しいことを指すのではない。「命のあらん限り、称名念仏すべし」(御文)ということか。
揺れ動く、困難な時代にこそ、限りなき日々の精進が大切であろう。一日一日を大切に。
合掌